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むかし、昔の話にござります。

ある島国に、ひと組の夫婦が住んでおりました。
ささやかな住まいに夫婦ふたりと猫が4匹、山越え谷越え、打ち寄せる
大波小波をしのぎつつ、連れ添って20年も過ぎようかという頃合のことで
ございました。

夫がカイヨウなる病を患いました。
妻は飲みもの・食べものに気をくばり、家庭での食卓においては酒を絶たせて
おりました。
それと申しますのも、古来、その病にはアルコオルやニコチンなどが
有害であると伝えられており、夫はいずれをもたいへん愛好するもので
あったからでございます。

ある、夜のこと。

午前3時を回ったころに、夫が帰ってまいりました。外でたいへん酒を
きこしめし、酔いくらっておりました。
夫は妻にむかって、高らかに申しました。
「余は、財布を落としたようである」

さいふ。それは、財(おたから)をいれる布(きれ)という言葉で
あらわされるとおり、なかなかに大切なものでございます。
モノと交換できる貨幣や、前借という形で貨幣がわりに使用することが
できる、くれじっとカードなるものなどがしまわれておりまする。
それらを失くすことはもとより怖ろしい出来事ですが、万が一、ほかの誰かの
手に渡り、勝手に使われるなどいたしますと、のちのち、たいへんな事態に
なりまする。
──以前、その憂き目にあった知人より詳しく聞き知っていた妻は、おおいに
憂慮いたしました。

「それは大変なことにござります。ともあれ、カードの悪用を避けるためにも、
カード会社に連絡して、停止してもらわねばならぬのではありますまいか」
「心配無用である。落とした場所は、たぶん、わかっておる。2軒目に
いった店である。念のため寄ってみたが、すでに閉まっていたのである。
明日、余みずから、連絡する」
そのような旨を、ろれつのよく回らぬ口で言ってのけた夫は、そのまま
ソファなる椅子に倒れこみますと、いびきをかきはじめたのでありました。

妻は考えました。
この様子から察するに、はたして、店で落としたものであろうかと。
路上などで落として拾われたともかぎらぬものでございます。
やむなく、妻はインターネットなるものを利用して通信をはじめました。
夫が持っているカード会社の深夜窓口を調べだし、それぞれに連絡をとる
ことにしたのでございます。

事情を知った各社窓口の担当者は、それは親切に対応してくださったそうで
ございます。しかしながら、直接本人からの連絡でないと、カード停止は
できないということを、妻は知らされました。
さらに、いったん停止してしまいますと、7日から10日ほども、あたらしく
カードが届けられるまで、使えないというのでございます。
出張先で使うこともある、と聞いていた妻は、思案いたしました。その期間
使えないと、夫自身が困る場合もあるのではありますまいか。

ある会社の担当者は、このように申し出てくださいました。
「ご本人さまに直接であれば、とりあえず今夜、使われていないかどうかを
お伝えすることはできますが」
「──わかりました。しばしお待ちくださいませ」
妻はまなじりを決し、高いびき中の夫の頬や胸を音高く張り、ようやく薄目を
開けさせることに成功いたしました。
「……?」
「とにかく、なんでもよろしいから、お返事をなさってください」
寝ぼけている夫の耳に、受話器を押しつけました。
電話線の向こうで、係の方がなにやら、おっしゃっているのでありましょう。
夫が「は。は。すみません。は」などと申すうちにも、まぶたを閉じる様子が
見えました。
妻はすぐに、受話器をじぶんの耳に戻しました。
「それであの、いかがでございましたでしょうか」
「直接ご本人さまにお伝えしましたので、奥さまにもお伝えいたします。
今夜、今までのところ、現状のデータでは、使用された様子はございません」
妻は安堵いたしました。
篤く御礼を述べ、とにかく明朝、本人から連絡をさせること、また、
とりあえず落としたという連絡があった記録は残していただけるよう
あわせてお願いもいたし、電話を切ったのでございます。

このような連絡を繰り返したのち、さらに妻は考えました。

夫が落としたと言っている店に連絡して、もし留守番電話になっていれば、
そこに伝言を残しておくことも、あるいは役に立つやも知れませぬ。
妻はふたたび、きもちよさげにいびきをかいている夫のもとに寄り、
全身の力をこめて揺すりあげました。
夫の目が、薄く開きました。
「2軒目に行ったというお店は、どこのなんというお店ですか?」
「ハママツチョウ。名前、知らない。○▲ナントカ?」
○▲のところは、ひらがなでそれぞれ、一文字ずつ。
それではまず、見つかりますまい。
妻はため息をこらえ、それでも念のため、インターネットで調べてみました。
すると、なんという幸運でしょうか。
○▲ではじまる店は、一軒しか出てこなかったのでございます。
どのようなお店であるかを確認してから、妻はみたび、夫のもとに
まいりました。
「今日召し上がったのは、おでんですか??」
耳元で大きく声を張りあげます。
夫がびくりと動いて、目を開きました。
「おでんのお店でしたか?」
「あ。うむ。おでん。食べた」
どうやら、当たりのようでございます。妻はさっそく、その店にも
電話をかけてみたのでした。すると、留守番電話になっておりました
うえに、緊急の連絡先である携帯電話番号まで告知してくれているでは
ありませんか。
なんという親切なお店でございましょう。
……が、すでに時刻は3:30A.M.を回っておりました。さすがに個人の
番号にご連絡するのは、あまりに申し訳のない時間でございます。
幸いなことに、その店は夜だけにとどまらず、昼間にも開けている店で
ございました。それなら、朝の10:00には確実に連絡がとれるはずだと、
妻は考えたのでした。
店の番号と携帯電話の番号とを控えた妻は、とりあえず、今宵はここまで
と手配を了えたのでございます。

そのあとで、ソファでやすむ夫の顔を眺めたとき、妻の心にふと疑念が
さしたそうでございます。

この酔いくらった男は、はたして、ほんとうに財布を落としたので
ありましょうや? もしやとは存じますが、ただ、ふだんいれる場所に
入れていなかったために、落としたと思いこんでしまったなどということは
あり得ませんでしょうや……?

遅まきながらようやく働いた第六感をたよりに、妻は夫の部屋にまいり、
放ってあるカバンを手にいたしました。
中をさぐること、ものの数秒──。
見慣れた財布が、ノートなどの間にはさまって、出てまいったので
ございます。
その場に座った妻の口元から、妙な声が洩れました。
それはやがて、うひょほろちりりと、鳥の鳴き声にも似た甲高い笑い声に
かわってまいったという話でございます。

その後の夫の消息は、杳として知れぬとか……。

これをして、ひとびとはみな、あらためてこう申し合わせたとのことで
ござります。
「酔った人間の言葉は、けっして当てにしてはならぬ」と。

とっぴんぱらりのぷう。
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